お知らせ

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「インド仏教聖地巡拝と聖地ハリドワール、リシケーシュの旅」を終えてのご報告をブログにアップしました。
是非ご覧下さい。http://yukoyogayogin.com/blog2/?p=1561

新年、あけましておめでとうございます。
本年も宜しく御願い申し上げます。

自在心2015モノクロ

「心自在にして光顔巍巍」

「自在」とは心を縛るものなく、全く解放されている様をいい、「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」とは、お釈迦さまが、いままさに教えを説き始めようとする際、全身が喜び出し、姿が清浄であり、お顔全体が大きな光となっているような様をいい、特に「巍巍は」は徳の高く尊いさまを表しています。

「あーっ、自由になりたい」という思いは、誰にもあることと思います。このとき、私たちは自分以外のものに縛られているように勘違いしています。まわりに翻弄されて他に影響を受けている自分であることに気付いていないのです。

自在というのは、自分のより所を「自分のうちに在る」ようになった時の安堵感であり、その時はおのずと、姿は清浄で、眉間も広く自身が輝くようになることでしょう。

心を自在にできたときには、顔は光輝いて巍巍たる姿となる、というのです。

心を自在に導くのは、瞑想の力に他なりません。邪魔するものを排他的に取り除くという「自由」ではなく、呼吸法と瞑想によって、散らばった心をまとめ一境に住するものとしていくことが大切です。

こうすることで、自分の内に自分を取り戻し、翻弄されない真の自由、すなわち「自在心」を獲得できるようになります。「自在」とは、自分の中心軸を定めることであり、翻弄されない自分をつくりあげることなのです。

自分の芯を維持した本当の意味での自由、つまり、「自在性」こそが真の自由であり、その手段が瞑想力なのです。今年は、排他や逃避ではなく、瞑想力によってまわりに左右されない自分を目指す一年としてみては如何でしょうか。

あたらしい年を迎え、みなさまがからだ健やかに、「自在心」を獲得し、こころはゆたかで「光顔巍巍」に過ごせるように、祈念したいと思います。

                         平成二十七年 乙未正月元旦

 番場裕之直筆サイン切り貼り作成2015サイト用

シンポジウム「精神性に与える瞑想の効果」1去る11月29日、東洋大学国際哲学研究センター主催のシンポジウム「精神性に与える瞑想の影響」の日が開催されました。雄弘ヨーガ関係者の方もその中に1割ほど来ていただき、遠くは高知からも聴講に来られました。力強い応援の中で発表させていただきました。以下に、私の発表内容の概略を記しておきます。

◆ヨーガの瞑想
インドの瞑想について、特にヨーガ派の瞑想の手段について、述べさせて頂きます。
古典文献に記されたヨーガを現代社会に反映するのが、実践者としての立場なので、旧来の伝統的解釈に縛られないで実践的解釈をしたいと思います。

そもそも、瞑想の概念は多様であり、背景となる思想によって様々な瞑想が存在していたし、現在もそのようになっています。
実際、『ヨーガ・スートラ』にもいくつかの異なった体系の瞑想が入り込んでいます。

瞑想すなわちヨーガが、ウパニシャッドの中で説かれるようになる紀元前から、『ヨーガ・スートラ』の完成とされる五世紀ころまで、約千年ほどの時間差があり、その間に様々な瞑想観から影響を受けたものと考えられています。

『ヨーガ・スートラ』には、おもに三種類ほどの体系が説かれています。
『ヨーガ・バーシャ』という註釈が最高の瞑想と伝える無想三昧とその前段階とされる有想三昧、仏教の影響を強く受けて取り込まれたとされる有種子三昧・無種子三昧、そして、ウパニシャッド由来の特徴を強く残した八支、ヨーガ・アンガで示される、凝念・静慮・三昧の体系です。

その短さ故に、『ヨーガ・スートラ』単体での理解が困難で、註釈を活用するという手法をとるのですが、その際、註釈の思想に影響されるということからは逃れられないところがあり、瞑想も様々に解釈されていて絶対的な見解がないことから、その内容については、今ここでは触れないでおきます。

◆瞑想の手段
『ヨーガ・スートラ』には、瞑想に至る具体的手段もいくつか示されていて、自在神祈念、読誦、行事ヨーガについては、三昧乃至は無想三昧の手段とはっきりと記されています。
その他、瞑想の手段と明記はされないものの明らかにそのように理解できるものが、坐法、調気法などです。

瞑想シンポジウム小

坐法は今日的な体位法ではなく座禅に近いものです。坐法の完成には座が堅固に定まるだけでなく、サマーパッティという瞑想の手法が不可欠であるとされています。『ヨーガ・スートラ』の調気法の目的は、日常の心情を反映した乱れた粗い呼吸をなくすことです。乱れた粗い呼吸は三昧状態の心には起こらないものなので、呼吸が丁寧に調えられれば、三昧に近づくことがわかります。

これら三昧の手段のうち、読誦、坐法、調気法は身体感覚としての内部的な刺激をともないます。読誦の場合は声を発することによる振動やバイブレーションと呼吸を伴います。坐法は座を組んだり姿勢を正すことによる刺激があり、ハタ・ヨーガの体位法のようなダイナミックな実践になると、その刺激も増大します。調気法は呼吸の実践なので、息の流れる感覚や腹部・胸部の動きによる内部刺激を伴うのです。

この刺激がしっかりと把握できるようになると、気が多く散乱していた心がその感覚に自ずと縛り付けられて、否応なくその感覚のみを捉えて、ひとつの対象に心が固定された集中状態になるのです。

調気法、特に、入息も出息も鼻で行うヨーガ式の鼻孔呼吸の呼吸の場合は、その効果も特別なものとなります。呼吸を酸素と二酸化炭素のガス交換と単純なものと理解した場合は、出息については鼻呼吸も口呼吸も大差はありません。しかし精神的影響、気のエネルギー、プラーナなどを合わせて理解すると、鼻孔呼吸は重要な意味を持ってきます。

◆鼻孔呼吸の意味
鼻腔の中には三段の仕切りがあって、それぞれ下から下鼻甲介、中鼻甲介、上鼻甲介といいます。息が日常の心情を反映した乱れた粗く早い呼吸であれば、息は下鼻甲介を通ります。しかし、繊細に調えられた長い息の場合は、上鼻甲介を通ります。上鼻甲介には嗅覚神経が密集していて、そのすぐ上が脳になります。
嗅覚
このように繊細な出息をすることで、嗅覚神経を刺激することとなります。嗅覚神経を刺激すると副交感神経が活性され、興奮気味の心も沈静し、瞑想に必要な準備を調えることができます。

また、上鼻甲介や嗅覚神経を刺激した際の独特の感覚は、まさに身体感覚としての内部的刺激そのもので、散乱していた心であっても、否応なくその感覚のみを捉えて、ひとつの対象に心が固定された集中状態、つまり凝念となるのです。

凝念を深めて、同じ感覚から心がぶれなく集中できると、静慮、そして三昧へと瞑想の段階を登ることができるのです。古代のヨーガ行者たちは、この感覚を気のエネルギー、つまり、プラーナだと捉えたものと考えられます。

瞑想自体はとても大きく深い実践ですが、入口はこうした内部刺激への集中から始まります。まずは、ゆっくりとした腹式呼吸によって、長い出息を心掛けて、上鼻甲介と嗅覚神経の刺激に集中することで、雑念がなくなり、心がひとつの対象に定まった心一境性に至ることができます。

5分位の実践から始めて、心のもやもやをスッキリしてみましょう。

山々が色付く11月1日、風光明媚な嵐山で実践セミナーを行いました。
京都地区のメンバーを中心に、名古屋からも出席され、充実したヨーガと交流、
そして料亭木乃婦さんのおいしいお料理を頂きました。
会場となった「小倉百人一首殿堂 時雨殿」の方々には、たいへん良くして頂きました。
ありがとうございました。

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大阪地区のメンバーを中心に、徳島、高知、金沢や新潟、秋田などの遠隔地からも来られました。
楽しい交流とともに2日間の日程すべてを修了しました。
26日の早朝は、黒谷・金戒光明寺の境内をお借りして、礼拝と早朝ヨーガ、散策を行いました。
清々しい、充実した2日間でした。

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